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自然派へのきっかけ (前編)

自然派へのきっかけ (前編)


                                                   未就学児のママ  ひめこ


初めまして。  
私がどうして自然派なものに関心が向いたのかのきっかけなどを書いて、とご依頼をいただきましたので、
ブログもなにもやっていない文章下手な私ですが、良い機会なのかな?と思い、やらせていただくことにいたしました。
よろしくお願いいたします。

20代前半の私は・・・
ジャンクフードやコンビニのものも気にせず食べる。
好きな化粧品メーカーは(当時色々使って私的にメイクが長持ちしたので)海外有名ブランド。
テレビCMで新しいシャンプーなどが出れば試してみたくなりすぐ購入。
洗濯の洗剤もいわゆる“オシャレ着洗い用”など、CMで流れている通りのものを使う。
そんな毎日が普通でした。

そんなある日。
とうとう、まぶたにアトピーが出てしまいました。
象さんのような皮膚。化粧をしたって隠せません。
元々こどもの頃は手や腕にアトピーが出ていましたが、大人になってから発症したのはこれが初めて。
20年ぶりくらいのアトピーです。しかも顔!

母の勧めで、女医さんのいる、普通の皮膚科へ行きました。
そこで先生が当時のわたしには信じられないようなアドバイスをくださいました。

「まず、シャンプーを変えることですね」

はい? なぜに?
シャンプーのなにが悪いんですか?
ごく一般的な市販のシャンプーですけど・・・?

「あのね、普通に売っているシャンプーって、大抵よくないものが入っているのよ。
 このシャンプーにとりあえず変えてみてください」

この日を境に、世の中を見る目がガラリと変わりました。
「普通に買い物できるもので、からだに悪いものがあるの? なんでそんなものを企業は売れるの?」

それからは、ネットと本を主に情報収集の毎日でした。
世の中の市販のものの、悪い成分ってなんだ?
じゃあいい商品はあるのか?
人にも地球にも負担の少ないものってなんだろう?

調べれば調べる程、様々な情報がどんどん出てきます。
今までは何だったんだ・・・と。
コマーシャルではいいことばかり言って買わせて、本当は人間にも地球にも悪いって。
ウソが嫌い。
いい顔して実はそうじゃない、というのが一番嫌い。

ベジタリアンにもなりました。
スピリチュアルな話題にも関心を持ちました。

そんな時、日月神示の本と出会いました。
本なんて普段は読まないのに、でもこの本は出会ってしまった。これは読まねばならないと。
意味のわからないところも多いけど、読みました。

人との出会いは必要な時に必要なタイミングで、なんていう話もありますが、本ともそうだなと思います。
目の前に来たもの、情報、依頼など、大事にするべき。拒否しない。というスタンスができてきました。

ネット上には更に色々なことを教えてくれる人もいます。
たとえば世の中の裏側の話。
都市伝説でしかないと思っていたような話も現実なんだよ、と。
わたしたち“一般市民”って、なんなの? そんなこと知らずに一生懸命生きているわたしたちって、と思いました。
完全に世の中が嫌いになりました。絶望でした。
世の中をひっくり返す力なんてない。
どうしたらいいんだろう。これからどうやって生きて行けばいいんだろう。
悩みました。
けれど、自分は「●●よりはマシ」の精神で日々を暮していく。
自分がやり続けることで、すこしでも周りにいい影響があれば、という想いだけ。それだけが支えでした。

人様に顔を見せなければならない仕事なもので、顔のアトピーも非常に悩みました。
ステロイドも使いました。
それでも解決にはなりませんでした。
どれくらい悩まされたでしょうか。

普段の食事も完全に変わりました。余計なもの・不自然なものは体に入れない。
使用する日用品も。
それでも100%完璧、は無理。
「●●よりはマシ」の精神で、できる範囲で。でも割とストイックな方だと思うのです。

実践してみて、
精神的にもラクになりました。
生理痛も軽くなりました。
自律神経失調症だろう、というのも治まります。
頭痛なんていうのもほとんどない。
アトピーは良い先生を紹介して頂いて、ホメオパシーなどで治りました♪

皮膚がこれまで体内に入った悪いものや不要なものを排出してくれたから、私は自分でも気が付くことができました。
アトピーが出て悩みましたが、結果、大きな病気になる事なく、
今の健康的な生活を手に入れることができたと思っています。

“絶望”のお陰でそれまでの常識や暮らしや考え方を手放すことができ、
その後手探りで“本物”を手に入れることができました。
これが、私の柱となっていると思います。かなり強固な柱、です。


   次回後編に続く。次回は子育てのことなどです。

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北海道胆振東部地震を体験して(後編)

北海道胆振東部地震を体験して(後編)
               
                   北海道のある地方自治体職員

9月6日3時8分震源地では震度7を記録した胆振東部地震だが、
幸いにも9月7日22時過ぎには、我が町ではほぼ全世帯で電気が復旧した。避難所は翌8日に閉鎖され、私たち職員も非常体制から解除された。しかし、その後2日今後は電話が使えなくなり、かなり不便であった。

停電はたったの2日。普段から準備し、防災訓練もしてきたことも活かされていない部分が多かった。震源地に近い地域では死亡者も多数出ており、自宅が崩壊して避難所生活が続く方が大勢いる。それに、7月に起こった西日本の豪雨災害や、東日本大震災と比べれば私の町は屁でもない。私の町でも、ケガされた方はいたものの、自宅が崩壊したとか、地盤地下や土砂崩れもなかった。それでもずっと避難所に詰めていると、たった2日なのに今が何日かもわからなくなった。そして、停電解除後もしばらくはガソリンスタンドも行列。スーパーやコンビニの食品は空っぽ。飲み物や、乾電池、ラジオ、懐中電灯、カセットコンロ、発電機などが店から消えた。

 私の家族は冷蔵庫にあるものを食べ、外出しないのでガソリンスタンドに並ばずに済んだ。友人知人も目の色変えてスーパーで買い物することもなく、腐らせるともったいないので、冷凍庫の物を食べて毎日豪華な食事をしたと言っていた。ホームセンターに勤める友人の話では、営業が再開されるとみんなこぞって買い物をし、他人のかごの中身につられて、今必要がどうかを考えずに、どんどんかごに物を入れている人が大勢いたと言っていた。

 さて私と言えば、非常体制を解除されて地震3日後ようやく、部屋の片付けを始めたが、リビングの家具という家具はすべてずれており、他の部屋も改めてみてみるとすごい状況になっていた。縦揺れだったので、大きな家具も倒れず助かったのだが、家具を固定する必要を実感したし、ガソリンは半分になったら給油し、現金も多少は持っていなくてはならないと思った。あとは、非常食や水。以前より、家族の1日分程度の非常食は用意していたが、今後は、乾麺や乾燥食品をもっと常備しようと思っている。
今回の災害で、情報が入らないことがどれだけストレスになるか痛感した。避難所では食料や水を配布したが、避難所まで来られない高齢者もたくさんいたこと。自治体として反省点、次に活かさねばならないことが山積みだ。

 そして、しばらくは節電が呼び掛けられ、町のネオンや、スーパーも照明が間引きされた。ただ、私の自宅ではさてどう節電しようかと考えたが、普段から節電しているので、いつもの生活と変わりはなかった。

停電になってわかったことがある。9月6日は快晴であり、夜空を見上げると満点の星空であった。街中でも明かりがないとこれほどに星がきれいだったのかとかなりショックを受けた。人間がいかに自然を破壊しているかつくづく思い知らせれた。停電でも問題なかったのは、農家の方たちだった。幸い夏だったので、食料は畑にあるし、発電機がある家庭が多いので、農家の家は電気がついていた。最後は、食料を生産している人は強いんだなと思った。胆振東部地震を体験して、生活を見直さないといけないなと思った人は私だけではないだろう。

 最後になりましたが、この度の震災で犠牲になられた方のご冥福と、被災されている方の1日も早い復旧を心よりお祈りします。

北海道胆振東部地震を体験して(前編)

北海道胆振東部地震を体験して(前編)
               
                                                             北海道のある地方自治体職員


私は、町役場の職員だ。2人の子どもはもう社会人だが、子どもが幼い頃、常にこう言い聞かせていた。「お母さんは、大きな災害が起きた時、あなた達の安全がわかったら、町のみんなのお手伝いをするから、家には帰って来られないよ。お父さんやじいちゃん婆ちゃんと家で待っていてね」と。しかし、本当にそんな日が来るとは思っていなかった。

9月6日3時8分、大きな揺れで目を覚ます。揺れは大きいが、寝室では物が落ちたり倒れたりはしなかった(その時はそう思った)。そのため、それほどの震度ではないのかなと思い、隣のリビングに行って震源地がどこか確かめようと、のろのろと起き上がった。しかし、リビングの戸を開けて唖然とする。足の踏み場がないほど物が散乱しており、家具の扉もあいて中の物が飛び出ていた。テレビをつけると、震源地は比較的近い場所で、我が町の震度は5弱。息子と娘の住んでいるところは震源地から離れているので、まず大丈夫と思ったので連絡は取らず、職場に行こうと思った時、照明が消えた。停電だ。夫も夫の両親も起きていて無事であると確認したので、私は車で職場に向かう。夜中の3時過ぎ。真っ暗の闇の中、街灯も信号機もついていない。

 職場は、自家発電があるので、照明がついており、パソコンも使える。たくさんの職員が参集していた。すぐに災害時のそれぞれの担当が動き出し、私も町内の被害状況を確認に行くなどばたばたと動いているうちに、停電の理由は苫小牧東部の北海道最大の発電所の停止によるもの、すぐには停電が復旧しそうもない事がわかる。北海道全域で停電している。そして、避難所を開設することが決まった。
 次第に夜があけ明るくなると、震源地の厚真町の土砂崩れの状況がテレビに映る。集落が飲み込まれているではないか!私の課は、避難所開設が災害時の担当。避難所に行く職員を割り振る。通常の勤務時間になると、町民の対応に追われる。幸い、一部の高層住宅を除いて断水にはならなったので、ガスや、カセットコンロで調理ができる。私たち職員は、地震直後に勤務してから食事もとる間もなく、対応に追われた。

 一般家庭では、電気がつかないので、テレビからの情報もなくスマートフォン等で情報を取れる若者以外はラジオが頼りだった。どうやらコンビニの食料は売り切れ、スーパーは停電のため営業できず。ガソリンスタンドは現金のみの販売で1,000円だけの給油のため、長い行列ができていた。町内の事業所もほとんどが自宅待機になっているようだった。携帯電話の充電は、各避難所と役所で町民に開放したので、1日中、充電に来る町民であふれていた。

 私は、お昼にいったん自宅に帰って化粧をしてくる余裕ができたので助かった。が、その後夕方から午前0時まで。翌朝6時から正午まで、その後通常勤務して夜6時からと二晩避難所に詰めた。飛行機、JR、地下鉄、市電等交通機関も麻痺。バスも信号機がないのですべて運休。一般自動車は信号機がない中の走行だが、交差点ではなんとなくアイコンタクトで順番に通行し、交通事故はなかった。しかし、夜の車の走行はかなりやばかった。ヘッドライトが照らす範囲は思ったより狭い。真っ暗な中の運転がこれほどに怖いものだったのか。
 (後編につづく)

父の認知症(その後)②

父の認知症(その後)②
                     ムックマムスタッフ S子

 認知症を発症する前の父は、緑内障の治療をしていましたが、その他は至って元気で、薬を飲むような病気になってはいませんでした。

 しかし、一年ほど前のこと、仕事中に友人から電話があり、街中で血だらけになっている父と介抱している母に遭遇して、一緒にいるとのこと。慌てて現場に行くと、父は、つまずいて転倒し歩道に顔面を打って目と目の間を切っていました。友人にお礼を言って、病院に連れて行き、縫合してもらいました。
 母も携帯電話を持っているのですが、外出するときに持ち歩いておらず、幸いにも友人が見つけてくれて助かりました。もう、診療時間が終わっており、夜間診療時間でしたが、なんとか治療できました。しかし、治療後は絆創膏をはがそうとするし、自分がなぜこんなけがをしたか忘れているので、何度も質問するし、翌日病院に消毒に行くとか、後日の抜糸の際も、父は、我慢と言うことをしないので、痛いからやめろとか、何をするんだと医者に悪態をつきます。
 ただ、あんな傷をしても不思議と痛がらず、家ではおとなしいのが不思議で、痛みを感じなくなったのかと不安に思うほどでした。しかし、嫌なことをされると痛いと言えば良いと思っており、例えば、爪切りや髭剃りなどは嫌なので痛いとか、血が出るからやめろと言うのです。

 こんなこともありました。頻繁にトイレに行くのですが、尿が出ないと。これは大変と受診すると、前立腺の病気で、かなり尿がたまっている状態でした。ほおっておけば尿毒症になって死亡する状態。しかし驚いたのは通常は手術をすれば完治するようですが、認知症だと、手術はできないと言われたのです。認知症患者の入院を受け入れてくれる病院も少ないと言います。本人に治療の理解がなく、手術の意志が確認できないためです。愕然としました。確かに、今の父は麻酔すれば手術はできるでしょうか、麻酔が醒めたあとは、状況が理解できないでしょう。投薬で改善しなければそれ以上何もできないと。金銭管理は成年後見人制度の利用ができますが、認知症患者の医療の方はたとえ家族が頼んでも体にメスは入れられないようです。

 さて、父の場合は投薬で排尿できるようになり、一安心ですが、この後、鼻血が止まらず救急搬送されたり、できものができて通院など、何度か医療にかかるのですが、その度に、医者には、痛い、何をする、やめろ、ひどい時は「叩きつけるぞ」と暴言を吐くのです。もう、病院で治療もできないのかと母と同行した姉をほとほど困らせました。

 また、ストーブの上に直接物を置いて乾かそうとするので、温風式ストーブに変えたり、自転車で出かけて帰って来れなくなったため自転車を取り上げたのですが、その後、徒歩の徘徊で警察にお世話になったりと、この2年もいろいろありました。
私の顔も名前もわからなくなりました。私が会いに行っても帰ったあと、俺には娘がいるのに、ちっとも会いに来ないなと言うそうです。
 徘徊はそもそも遠くまで行けなくなり、心配は減りましたが、自転車がなくなった時は、最初はかなり怒っていました。とにかく、自分の思うようにいかない、やりたいことを止められると怒りだす。1分と覚えていられないので、何度も何度も繰り返し説明をする。一緒にいる母のストレスは想像を絶します。母が健康で父の面倒を見てくれるので感謝です。そろそろ施設入所も検討しなくてはと思っていますが、母はまだ頑張れると。こんな優しい妻を持って幸せだなと父が思っていないのは残念です。

 父は、お隣の庭や、おうちにも勝手に入ってご迷惑をかけたりしています。幸いお隣さんは、父のことを理解してくださっていますが、甘えてばかりもいられません。高齢化社会、介護の現場は本当に大変です。いろいろなパターンの人がおりますが、社会が認知症の理解を深め、周りに認知症の人がいたら地域で温かく見守ることができるようになるといいなと思っています。

父の認知症(その後)①

父の認知症(その後)①
                     ムックマムスタッフ S子

 2016年8月に父の認知症の話を掲載しました。
 あれから2年経った今の父の状況をご報告させていただきます。

 父の症状はどんどん悪化し、当時週に1回、いやがる父をやっと半日だけ通所させていましたが、迎えの車に乗せるにもひと苦労の上、行ったと思ったら3時間後には帰って来る。と、いう状況で母のストレス解消にはなっていませんでした。

 通所施設で運動して来るので父のためにはなっていると思って通っていましたが、その運動も継続してやれなくなり、さぼるようになってきました。何しろ、自分に運動しようという意志がないし、運動が自分のためだとも理解できないのですから。そのため、1日の通所に変更しました。昼食が出るし、入浴もさせてくれるので母の負担も少しは減るかなと思ったからです。それに父と一緒にスーパーに買い物に行くと、父は「早く帰るぞ」とか、「そんなに買ったらお金がかかる」とか、言うようになり、買い物さえもままならなくなったため、父の通所日に母が用事を済ませるという必要が出てきたのです。

 通所は週に2回としました。相変わらず、「なんでそんなところに行くのか、行かん」と言うようで、母は騙しだまし、「私も後から行くからね」となだめて車に乗せるようです。もちろん帰宅後も何をしてきたか覚えてないし、おいしい昼食を食べてきているのに忘れていて、「もう行かん。迎えに来なくていいと言っておけ」と言うのです。

 父の場合、お金のかかることを極端に嫌がります。戦争時代に育ち、つつましい生活をしてきましたが、使うべきところは使っていましたし、認知症状の軽い時は、必要のない高価なものを購入してきて私たちを驚かせたりしていました。しかし今は、テレビは電気代がかかる。新聞もお金がかかるので必要ない。と、言うようになり、母はテレビを自由に見ることすらできなくなりました。新聞に至っては、新聞配達が来る時間に玄関フードのカギをかけておけば、新聞は届かなくなると言い出し、早朝に起きるようになってしまったのです。中止を申し出るという発想はなく、引き落としになっている口座の残高を無くしておけばいいとか、お門違いのことを言います。結局新聞購読を中止せざるを得なくなりました。

 そんな父ですから、通所に行けばお金がかかると思い、お金かかるから行かないと。介護サービスのお知らせなどは見ると怒りだすので、通所の明細は私の自宅に届くように変更してもらいました。それでも、施設ではたまに入浴を拒否したり、帰宅願望を口にするようですが、施設職員に暴言を吐くようなこともなく、食事は「おいしいおいしい」、入浴後は「たいした良かった」というとのことで、今のところは安心しています。

 今、一番困っているのは、本人の病気やけがのことです。昨年一年で、転倒して顔面の傷を縫うということと、救急車で搬送ということがありました。

次回は認知症患者の医療についてお話します。
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