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元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第2回

元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第2回


横山昌太郎(よこやま しょうたろう)
1971年広島県出身、三重県育ち。大学では森林保護学を学び、その後環境省(当時は環境庁)に入省、9年の勤務後辞職し、長野県軽井沢のピッキオ(星野リゾートグループのエコツアー団体に入社、森の生き物案内人となる。10年間のガイド経験後、新たな生活と働き方を目指し2016年4月香川県に移住。地域のガイド、畑仕事の手伝い、ガイド養成講師、エコツーリズムアドバイザーなど複業によって生活している。




 大学では、研究者になるつもりだった。というのも、自分は民間でお金を稼ぐために働いたり、競争したりするのには向いていない、と思っていたからだった(おそらく実際にそうなのだが)。研究者になるべく、野生動物と森林荒廃の関係をテーマとして大学院へ進んだが、研究を進めるうちに、今度は「こんなことが何の役に立つのだろう?」と思い始めた。また、高校の時に他界した母に続いて父も大学4年の時に他界していたため、「お金を稼ぐ」ということと「社会の中で役に立つ」ことを両立させるためにも、大学院の博士課程を中退して、調査フィールドで関係があった環境省(当時は環境庁)に公務員試験を経て入庁した。

 本当は大学があった名古屋市の造園職に就職したかった。街に自然を増やすほうが、すでにある自然を守るより、よりみんなが人間らしく生きられるような気がしたからだった。だが、「受かった!」と思った市役所の試験は一次試験で落ちていた。一方、「落ちた!」と思った国家Ⅰ種(造園職)には合格していた。

 これも神の采配かと思い、国家公務員となったが、毎夜終電またはタクシーで2時か3時に役所を出る日々、法律の作成時などは朝9時から朝5時までの勤務が1週間続く、などの状況から、次第に「自分は何のために生きているのか?」という疑問と、並行して「死んで楽になりたい」という気持ちが募っていった。前回の冒頭で触れた新橋の夜は、そのような時期のときのことである。

 その新橋での夜「これではいけない」と思った。だが、「なら、何がしたいのか?」の答えは何も見えない。自分のことなのに。悔しいというか苦しい。「何を選んでもいいはずなのに、答えが見つからない。一体今まで何をして生きてきたんだろう・・・」

 そんな状態のまま、また時が過ぎていったが、最後には「今まででやってきたことの中で少しでも楽しかったこと」の中から縁があった会社の、森のガイドという仕事を選ぶことにした。生来、人と接するのは苦手な方なのだが、自然の仕組みを人に解説するための資料作りなどは面白く、楽しい仕事だったからである。確信も自信もなかったが、半分は逃げ出したかったこと、そして半分は藁をもすがる思いからだった。


次号へつづく

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元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第1回

元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第1回

◎横山昌太郎(よこやま しょうたろう)
 1971年広島県出身、三重県育ち。大学では森林保護学を学び、その後環境省(当時は環境庁)に入省。9年の勤務後辞職し、長野県軽井沢のピッキオ(星野リゾートグループのエコツアー団体)に入社、森の生き物案内人となる。10年間のガイド経験後、新たな生活と働き方を目指し2016年4月香川県に移住。地域のガイド、畑仕事の手伝い、ガイド養成講師、エコツーリズムアドバイザーなど複業によって生活している。




 2月の深夜4時、冷たい雨が降る東京新橋の街なかをずぶ濡れで歩いていた。「もうどうにでもなれ」と思っていた。

 環境省の官僚として勤務して何年目だったか、精神的な限界がきていた。

 四日市ぜんそくで知られる公害の町、三重県四日市市で育った。広島の山間部で育ち、キャンプなどアウトドアが好きな父と、宮崎の農家で育って山菜採りやチャボやウズラを飼うのが好きだった母の元で育ち、(ゲームやテレビに費やした時間がかなり多かったことは否めないものの)両親の影響を受けて釣りや山菜採りが好きな少年だった。
 
 中学に上がる時に、校内暴力が酷かった地元の公立ではなく、近くの私立の中高一貫校を受験し、運良く受かった。しかし、大学受験では「自分は何がしたいのか」ということに悩んだ。言われた勉強をするのではなく、「自分で進路を選ぶ」ということが難しかった。大学の学部・学科名程度の情報を頼りに「化学の試験は得意だし、四日市は公害の街だから、工学部で公害対策でもできたら・・・」程度の気持ちで受験し大学に入学した。

 しかし、大学に入ってしまうと、なにか気持ちが落ち着かなかった。「大学に入ること」がゴールになってしまっていたので、地に足がついていない感覚があった。社会運動のサークルに身をおいてみたり、カソリックだった高校での男性職員の合唱に感動した記憶から合唱サークルに入ってみたり、仏教のサークルに入ってみたりしたが、これ、というものは見つからなかった。肝心の勉学も大教室の後ろの長椅子で横になって寝ていたなど、全く身が入らず、最初の学期でいくつもの単位を落とし、「落伍者」になることに恐怖を感じていた。

 そんな時、「林学」の講義に出会った。世の中に「木や森のことを勉強する学問」があるなどとは思いもしなかった。指導教官は「絶対に就職の時になって泣きついてくるから・・・」と強く反対したが、学部を変更して農学部林学科で森の勉強を始めた。


次号へつづく


父の思い出~死刑宣告からの復帰~  ◆第3回◆

父の思い出~死刑宣告からの復帰~ ◆第3回◆

神慶興 (ジン ヨシオキ)
フリージャーナリスト。昭和29年生まれ 北海道で長年、米屋を経営しながら、イラク戦争の折りには自費で現地取材2回を含むサマーワ基地を第1群~10群まで3年間100回以上の電話インタビューを行い、自力で全国32局のFMをネットして配信した。
2008年に新潟に移住し宅配業をしながら人生を楽しむ。 父の思い出~死刑宣告からの復帰


戦時中、接収していた中国の村では、軍に協力しない者には、食料の配給券が渡されないことになっていた。すなわち、働けない者には「餓死」が待っていたのだ。

父には、「祖国のために敵とは命懸けで戦うが、一般市民とは争わない」という信念があり、それをクソ真面目に通していた。

そのため村人で働けない者を見つけると、「検閲」と称して村人の家に上がり込み、配給券を渡していた。そのうち、村長から依頼がくるまでになっていった。

手持ちの券が底をつくと、給料で仲間から券を買い取って配るという徹底ぶりだった。



このことは、当然ながら隊長に知れ、部隊が日本に帰還する際に大陸に置き去りにされることとなったわけだ。

彼が券を配っていたのは、もちろん先々の利益を考えてのことではなく、あまり好ましく思っていなかった中国人から見返りなど期待もしていなかった。

だが杭に縛られ「死」を覚悟し、目隠しが外されたときは泪が溢れた。命が助かった安堵もあったが、「どんなときも人の気持ちは伝わるものなのだ」と、心が通じたことが嬉しかったのだ。

彼は小兵ながら柔道3段で、親戚や仕事仲間で投げ飛ばされた人は(私を含め)結構いたようだ。いつもニコニコして言葉遣いにも気を配っていたが、嵩に被って来る者には容赦なかった。

彼は7人兄弟の長男であったので、戦後、弟と妹をすべて高校を卒業させ、最後に(定年後)自身が卒業した。中野学校は高校の卒業資格はもらえたが、あえて新制高校を卒業する道を選んだようだ。

母は青森の国鉄で二人しかいなかった女性のモールス通信士だったので、夫婦喧嘩は(子ども達に気付かれないように)机の端を叩き合って口論していた。最初私には分からなかったが、「お前、打ち方が間違ってないか?」とか「国鉄ではこうよ」とか言っていたので気がついた。

今は両親の位牌と私の写真を並べて置いてある。両親の年齢に近づいた今、及ばずながら父の純粋さ、強さ、やさしさを真似てきた自分の人生についても考えることが多くなった。

~完~

父の思い出~死刑宣告からの復帰~   ◆第2回◆

父の思い出~死刑宣告からの復帰~ ◆第2回◆

神慶興 (ジン ヨシオキ)
フリージャーナリスト。昭和29年生まれ 北海道で長年、米屋を経営しながら、イラク戦争の折りには自費で現地取材2回を含むサマーワ基地を第1群~10群まで3年間100回以上の電話インタビューを行い、自力で全国32局のFMをネットして配信した。
2008年に新潟に移住し宅配業をしながら人生を楽しむ。


通信隊として中国に出兵していた父が終戦をむかえた時、所属していた通信隊の部隊長は父一人に「通信施設を中国軍に引き渡せ」と命令し、仲間とともに日本に帰っていった。

これは今で言うところのパワハラだ。当時、敗戦国の兵隊が一人でこのような任務を任されることは、一種のいけにえ行為である。彼は「死」を覚悟した。

実際、中国軍に施設を渡した後、彼には中国軍による死刑の判決が待っていた。

判決通り、彼は刑場に引き出され、目隠しをされて最後の時を待つ時が来たのだった。



長い時間が過ぎた。いや、そのように感じた。弾が飛んできたら、確実に自分の人生は終わる。どんな心境だったのだろうか。

ところが、本当に、いくら待っても弾が飛んでこない。

おかしく思い始めた頃、あたりがザワザワと騒がしくなり、そして突然、目隠しが外された。

そこには、軍が接収していた村の村長がニコニコしながら立っている。「もう、大丈夫。村であなたを引き取る事になったから」。そう言われ、銃殺用の杭から解かれた。

「今、日本は大変だから、このまま村にいなさい」。村長にそう言われ、結局彼は最後の帰還船が出るまで、2年間その村で暮らした。

実は日本に帰る時、「気に入った娘がいれば仲人してやるから中国人にならないか?」とも言われたそうだが、彼は日本に帰ることを選んだ。

村長は彼を帰還船まで荷馬車で送ってくれ、弁当代わりに饅頭までくれた。彼は饅頭を食いながら、骨と皮みたいになった残留日本兵の中を進み、帰還船に乗り、日本に帰った。その時の彼の様子は異様であったと思う。

何故、死刑判決を受けた彼が、それをまぬがれることになったのか?彼が特別扱いを受けた理由は少し変わっている。

~つづく~



父の思い出~死刑宣告からの復帰~   ◆第1回◆

父の思い出~死刑宣告からの復帰~ ◆第1回◆

神慶興 (ジン ヨシオキ)
フリージャーナリスト。昭和29年生まれ 北海道で長年、米屋を経営しながら、イラク戦争の折りには自費で現地取材2回を含むサマーワ基地を第1群~10群まで3年間100回以上の電話インタビューを行い、自力で全国32局のFMをネットして配信した。
2008年に新潟に移住し宅配業をしながら人生を楽しむ。


北海道の冬は寒い。特に山間部にある南美唄炭鉱の寒さは、想像に余りある。ここで生まれた私に、母からよく聞いた話がある。

ある冬、父が変電所から帰ると、朝着ていたはずの外套がなく、作業着である薄い長袖と下着姿で震えながら帰ってきたそうだ。

母が驚いて「外套は?」と聞くと、「帰る途中に震えている男がいて、可愛に思って外套をやってきた」と答えたそうだ。

母は「一番可愛そうなのは、お父さんなのにね」と、いつも言っていた。当時の父は、両親と自分たち夫婦、そして弟妹6人を養っていた。すみかは、どうやればこれだけの人数が入るのかという広さであった。

その時の父はアメリカ軍に追われていて、捕まれば「裁判なしの死刑」であったらしい。その上、身元を隠すため東京の市ケ谷で戸籍すらも焼かれて、身分を保証するものは一枚の卒業証書だけであったそうだ。

南美唄炭鉱には父の知り合いが沢山いて、いつも挨拶に付き合わされた記憶がある。話の内容は、仲間の消息であったり、戦争中の話だったと思う。

根っからの軍国少年だった彼は、15歳で志願兵として出兵した。支給された軍服はブカブカで袖やズボンを巻き上げて着ていたそうだ。まだ少年兵というのが珍しい頃であったから、まわりの兵隊からマスコットのように可愛がられたらしい。

最初の出兵が終わった後、彼は一度日本に帰還する。そして当時最先端の電気技術を勉強しようと、東京中野高等無線に入学した。現在もこの学校は東京に在る。

もともと、五所川原の大地主の跡取りであった彼は、お金の心配は要らなかったようだ。どのくらいの財産家だったかというと、生前に母が「アメリカに取られた財産の1万分の1でもあれば、お前は一生かかっても使いきれなかったのに」とこぼしていたくらい。もちろん、当時所有していた広大な土地は「農地開放」で接収された。

ともかく、少しの間、彼は好きな勉強に専念していた。

しかし、戦況が怪しくなると、モールスによる通信兵が足りなくなり、学校は生徒ごと陸軍に接収され「陸軍中野学校」と名前まで変わった。

そこを卒業すると、2度目の出兵となったが、この時は軍服でなく中国服での出兵であったらしい。中国での父の最後の任務は通信隊であったそうだ。そして、終戦を中国でむかえた。

ここからがまた驚きの逸話である。

~つづく~
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