Profile

mukkumamu

Author:mukkumamu
ナチュラルライフのご提案


最新記事


最新コメント


最新トラックバック


月別アーカイブ


カテゴリ


メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:


検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QR code

QR

世の中が変わる時

世の中が変わる時
                     ムックマム編集長 小林あゆみ

 ムックマムがブログ版になって今回で100号。冊子としてスタートしたのは19年前。10年ひと昔と言うけれど、世の中はふた未来入れ替わったと言えるわけですね。

 始めた頃はエコロジーという言葉さえ周知されていなくて、私たちみたいに環境だの自然だの言っている輩は、極端な悲観主義者か変わり者のように思われていたと思う。それがいつしか学校教育でも環境問題が取り上げられるようになり、漠然とながら誰もが「このままではヤバい」感を持つまでになった。
船


 そこへ来て3・11と原発事故。これを機に世の中大きく変わるのではと期待を持った人も少なくなかったと思う。今のままでは自然環境や人の命(健康や心)が犠牲にならざるを得ないから、どこかで大きく切り替えなきゃならなくて、そのためにはある程度の痛みも覚悟かなあと、心ある人たちは思っているはず。だけれど、案外、変わっていない。
kodomo


 ところが先日、経済が専門の先生のセミナーに出たら、もうそろそろ今の経済体制は崩壊しますよと話している。トランプ政権になったことで世界中のバランスが変わっていきますと。具体的で納得のいく説明だった。そして次の社会は今とまったく違った価値観で築きあげていくしかなく、それはロハスな社会ですと。驚いた。こんなところでロハスなんて言葉を聞こうとは。東大出の、世界のオモテもウラも知り尽くした経済の専門家が見つけた結論がそれ?
tumblr_noardvLHSK1r0dcubo1_1280.jpg


 先生の説明では、これまでは「欲望と競争」の原理で動いていた。人よりいい成績をとり、人よりいいところに就職し、人よりいい生活をすることが人生の成功とか幸せと思われていたし、それを原動力に馬力の出る時代だったと。たしかに私も受験戦争の最も激しかった時期に中学~高校生活を過ごし、そういう認識が基調低音としてあったのを覚えている。その後もバブル真っ最中で、三高(学歴高、収入高、身長高)がもてはやされていた。

 でも今の若い人たちは違う。「シェアと感謝とリスペクト」で動いていますと。競争原理では動かない。オヤジ達には理解できない感性なので、今の若いもんは思うように頑張らない、何考えてるのだかわからない、となるようだ。
街並み


 これにはストンと落ちるものがあった。常々、第一線のオヤジ達を全員引退させて、若いもんにやらせてみれば、未熟ながらも今よりずっとマシな世の中になるんじゃないかと思っていたのだけど、今のこの崩壊に向かってブレーキのきかなくなった暴走車をストップさせる、あるいは方向転換させるには、これまでと同じ原理であれこれいじっても無駄で、相当な不思議ちゃんの感性が必要なのだろう。

オヤジ達が、そんなんじゃダメだ、無理だ、失敗するぞとイラつく横で、意味不明の魔法によって次の世代は世の中を変えていってくれるかもしれない。最近、そんなことを思い描いています。
夜明け

写真:小林みのり
スポンサーサイト

寄り道小道 20 2008 秋

 林間学校から帰ってきた中2の娘が、やや不機嫌そうに話し始めた。「今日、野外炊飯があったんだけどね、ちょっといらついちゃった。」「どうして?」「だって、みんな人参の皮をむくんだよ。」私は笑った。「どうしてむくのって聞いたらさ、汚いって言うんだよ!」重ね煮の料理教室の時、講師の船越康弘氏が「汚いって理由で捨てられるんだったら、この世に捨てられる人はいっぱいいるでしょう!」と冗談まじりに言っていたのを思い出した。「それにさ、みんな野菜の繊維にそって切らないんだよ。切り方もスパっとしてないし、横にスライスしている人もいるし・・・。」
 「大人だってそんなもんだよ!」と笑いながら、娘のことがちょっと頼もしく思えた。この娘、とりたて料理が得意なわけでも何でもない。ただ、一歳の頃から包丁を持たせ、手伝いだか邪魔だかわからない作業を一緒にする中で、いつのまにか私流の「食」に対する価値観や技術を身につけたようだ。
 生活ってこうやって伝達されるんだな。私がもし皮をむく大人だったら、娘もむいていただろう。私が残飯をざばっと捨てる人間だったら、娘もそれを当り前と考えただろう。そう思うと、理屈で子どもに何かを伝える以前に、自分のしていることや考え方をよくよく顧みなくてはと考えさせられる。子は親の鏡とはよく言ったものだ。

寄り道小道 14 2007 春

 トラウマという言葉がすっかり定着した。主に子ども時代に親から受けた対応のマズさが、大人になっても歪んだ心理傾向や行動パターンとして残ってしまうことを言う。確かに環境が人間を作るとすれば、特に三つ子の魂に刻まれたものを、その後の人生で転覆させるのはいかに大変か。
 が、子ども時代よりもっと根が深いのは胎児期のトラウマだともいわれる。なるほどと思っていると、今度は、過去世から引きずっているトラウマは更に今の自分に大きく影響しているとか。
 どれも全くその通りなんだろう。が、こうなってくるとキリがない。
 私の知り合いで、若くして離婚し、その後、女手ひとつで子ども二人を育て上げて今は社長ともなっている人がいるが、その人が友人に誘われて自己開発セミナーに参加した時、大の大人が過去のトラウマを見つめて大泣きしているのを見て、心底びっくりしたと話していた。自分は昔のことなんか考えている余裕もなかった、ただただ前へ進むしかなかった、正直言って「ヒマなんだな」と思ったと。
 トラウマ解決が意味ないと言いたいわけではない。ただトラウマという言葉に甘えて、今、この時を精一杯生きるということから逃げている人が多いのが気になるのだ。目の前にある現実の生活、人間関係、仕事の中で無我夢中に生きて学ぶことのどれだけ多いことか。完璧な環境も育ちもどこにもない。誰もが少しずつ歪んだ自分のまま生き、そして光を求めている。トラウマトラウマと言って時間を費やすより、今、ここにある喜びに気づいた方が、トラウマ解決のためにもずっと早道に思えるのは私だけだろうか。

寄り道小道 4 2004年 秋

 子どもの食生活に付いて聞かれる機会が結構ある。うちの小学4年生と1年生の娘たちは、毎食2〜5杯ご飯を食べるということを話すと、たいていの場合、いたく驚かれるか、信じていない顔をされることが多い。そして、「痩せの大食い」と判を押されてしまうのだが、この夏、ご縁あって預かった小学3年生の女の子との変容ぶりを見て、やはり、子どもだってこのくらい食べるのが本来じゃないかという思いを強くした。
 というのは、うちにきた当初、彼女はお茶碗に軽く1杯がせいぜいで、おにぎりにしても1個しか食べなかった。それが10日もたったときには、おかわり、おかわり・・・で、うちの子と同じくらいの量を食べるようになっていたのだ。
 理由はいくつか考えられる。まず、おかずが軽い。油がほとんど使われておらず、量も少ない。動物性のものはほとんどない。そして、ご飯が進む味付け。それから、おやつは1日に1回と厳格に決められていて、そのとき以外は、お菓子はむろんジュースも牛乳も飲まない。飴玉1個でも許さない。おかげで、おやつはいつでも食べられるものと思っていた彼女も、やがて朝起きて一番に「今日のおやつは何?」と目を輝かせて訊ねるようになった。そのくらい”食べる”ことに対して意欲的になったのだ。
 そして、食事の少し前になると、「お腹すいた〜」と言って、せっせとお手伝いをし、食べるときには、ガツガツと気持ちよく食べる。子どもには三分の飢えを、というのは本当のようだ。いつもいつも空腹でも満腹でもない胃袋にしてしまう今どきの食生活、どう考えても子どものためになっていないと思う。

寄り道小道 2 2004年 春

 自分を変えていきたい、もっとこうありたいという気持ちを持っている人はたくさんいると思う。でもそこに、「かくあるべき自分」というイメージが描かれているとしたら、それはちょっとどうだろう。それは現在の自分を否定的に見ているということだし、お決まりのパターンに自分を合わせようとしているだけかもしれない。
 「いいお母さんになりたい」「ステキな女性になりたい」そんな前向きに思える願望でさえ、ありのままの自分に辿り着くには障害になってしまう。それにそういう道は、自分を高める手段としては必ず失敗に終わると思う。
 今ある自分が何を感じ、何を考えているかを徹底的に分析してみること。自分がどういう人間であるかを知ることからしか、自分を活かし、周りを幸福にしていくことはできないのだから、いい人になろうとすること、いいお母さんになろうとすること、そんなものは窓の外に捨てて、あるがままの自分と共に生きる道を歩んで行った方がいいと思う。
 | ホーム |  page top