<寄り道小道>
小林秀雄とホンモノを見分ける目 ムックマム代表 小林あゆみ
一人だけ好きな文筆家を挙げるとしたら、小林秀雄になる。
大学入試の評論文で、最も出題回数が多いらしい。
実際、長女のセンター試験のときにも出題され、
ああ、これでまた小林秀雄嫌いの日本人が全国に何十万人と
増えたなあと、苦笑してしまった。
かく言う私も、高校生の時は洟もひっかけなかった。
それが大学生になり、国文科の担当教官があんまり毎度毎度の
講義で小林秀雄批判をするものだから、
かえって小林秀雄に興味を持つことになり、
遂に本を手にとって読んでみることになった。
すると、いきなり面白い。
深いところで感じていたものを、まさに見事に言い表してくれていた。
雲は晴れ、さわやかな気分になったのを憶えている。
小林秀雄から学んだことは数え切れないけれど、
その後の人生において最も役立ったのは、
ホンモノを見分ける目を持つということだった。
「みんな違ってみんないい。」
たしかにそれはその通りだが、そのことと、
ホンモノとそうでないものがあるということは別問題で、
この世にホンモノと呼べるものは、やっぱりあると思う。
好き嫌いとか、正解不正解ではなく、
人間が深いところで共有している、
解釈や分析を越えたところにある何か。
正しい選択はないとしても、選択がホンモノであるかどうかはあるように。
「なんでもあり」、「答えはない」、「ゆるくていい」・・・。
いろんな考え方やいろんな物があっていい。
どれにも一理、一利はあるし、現実の場面で役立たせればいいと思う。
でも、しばしば私は自分に問いかける。
小林秀雄なら、これをどう捉えるだろうかと。
この出来事、この商品、この考え方、この風潮・・・
本質的な価値を見定められるのは、情報量でも分析力でもない。
ホンモノに触れ、感じること。
頭の中の余計なおしゃべりをやめ、知識ではなく感覚を磨くこと。
その体験の積み重ねから、
少なくとも「ニセモノ」は見えるようになる。
小林秀雄が教えてくれたこんなヒントから、
私は、雑然とした日々の中でふと、
「ホンモノだろうか?」と問いかける習慣を持つようになった。
そして30年近くたち、今ならわかる。
「ホンモノ」の対義語は、「ニセモノ」ではなく、「薄っぺら」なのだ。
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