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元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第3回

元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第3回

横山昌太郎(よこやま しょうたろう)
1971年広島県出身、三重県育ち。大学では森林保護学を学び、その後環境省(当時は環境庁)に入省、9年の勤務後辞職し、長野県軽井沢のピッキオ(星野リゾートグループのエコツアー団体に入社、森の生き物案内人となる。10年間のガイド経験後、新たな生活と働き方を目指し2016年4月香川県に移住。地域のガイド、畑仕事の手伝い、ガイド養成講師、エコツーリズムアドバイザーなど複業によって生活している。




 環境省をやめた時、自分は「落伍者」になったと思った。でもそれ以上に「人らしく」生きたかった。

 林業には「適地適木」という言葉がある。「それぞれの土地の特性に適した木を植える」といった意味である。役所で他の同僚は充実して働いているように見え、自分の根性の無さ、不甲斐なさを嘆く気持ちもあったが、「ホッキョクグマはジャングルでは暮らせないし、アジサイは砂漠では育たない。それぞれの生き方がある。役所は自分の適地ではない」と自分に言い聞かせた。

 ガイドとして、森を案内してみると色々なことが見えてきた。木だけでなく、様々な生き物がそれぞれの個性に応じた生き方をしていた。

 豊かな森は、単一の木や動物だけでは成り立っていない。多種多様な生き物、大きくなるブナ、日陰が好きな小さな花々、大きくて力強いクマ、土の中で腐葉土などを食べるミミズ…。みんなすべて違った生き方をしつつも、それぞれの間になんらかのつながりがあり、日光や大地から得たエネルギーや栄養を循環させて「豊かな森」が存在していた。そこに暮らす生き物たちに「正しい生き方」や「正解の生き方」はなかった。ただみんなが自然に生き、死んではまた循環の中に還っていた。

 そのことに気づいた時、さらに気持ちが楽になった。自分を無理に「あるべき姿」に合わせるよりも、「自然な姿」であることが多分一番幸せに近い姿であり、結果的に周りの人々や社会に対しても一番貢献できる生き方なのだと思った。タンポポは日なたで、ユキノシタは日陰で咲くのが一番美しく、そこに関わる生物と、愛でる人も幸せにしてくれるのだ。

 母が他界した歳になった2016年、私は思い切ってガイド会社をやめて仕事もないまま香川に移住した。「今死ぬとしたら・・・」と考えて自分がやってみたいことに挑戦しようと思ったからだった。今はまだ道半ばではあるが、幸いますます気楽かつ充実した生き方、働き方になっているように感じている。悩むことも少なくないが、そんな時は自然の中にでかけていく。すると自然が語りかけてくれるような気がするのだ。「あなたはあなたであればいい」と。

                                  完
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元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第2回

元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第2回


横山昌太郎(よこやま しょうたろう)
1971年広島県出身、三重県育ち。大学では森林保護学を学び、その後環境省(当時は環境庁)に入省、9年の勤務後辞職し、長野県軽井沢のピッキオ(星野リゾートグループのエコツアー団体に入社、森の生き物案内人となる。10年間のガイド経験後、新たな生活と働き方を目指し2016年4月香川県に移住。地域のガイド、畑仕事の手伝い、ガイド養成講師、エコツーリズムアドバイザーなど複業によって生活している。




 大学では、研究者になるつもりだった。というのも、自分は民間でお金を稼ぐために働いたり、競争したりするのには向いていない、と思っていたからだった(おそらく実際にそうなのだが)。研究者になるべく、野生動物と森林荒廃の関係をテーマとして大学院へ進んだが、研究を進めるうちに、今度は「こんなことが何の役に立つのだろう?」と思い始めた。また、高校の時に他界した母に続いて父も大学4年の時に他界していたため、「お金を稼ぐ」ということと「社会の中で役に立つ」ことを両立させるためにも、大学院の博士課程を中退して、調査フィールドで関係があった環境省(当時は環境庁)に公務員試験を経て入庁した。

 本当は大学があった名古屋市の造園職に就職したかった。街に自然を増やすほうが、すでにある自然を守るより、よりみんなが人間らしく生きられるような気がしたからだった。だが、「受かった!」と思った市役所の試験は一次試験で落ちていた。一方、「落ちた!」と思った国家Ⅰ種(造園職)には合格していた。

 これも神の采配かと思い、国家公務員となったが、毎夜終電またはタクシーで2時か3時に役所を出る日々、法律の作成時などは朝9時から朝5時までの勤務が1週間続く、などの状況から、次第に「自分は何のために生きているのか?」という疑問と、並行して「死んで楽になりたい」という気持ちが募っていった。前回の冒頭で触れた新橋の夜は、そのような時期のときのことである。

 その新橋での夜「これではいけない」と思った。だが、「なら、何がしたいのか?」の答えは何も見えない。自分のことなのに。悔しいというか苦しい。「何を選んでもいいはずなのに、答えが見つからない。一体今まで何をして生きてきたんだろう・・・」

 そんな状態のまま、また時が過ぎていったが、最後には「今まででやってきたことの中で少しでも楽しかったこと」の中から縁があった会社の、森のガイドという仕事を選ぶことにした。生来、人と接するのは苦手な方なのだが、自然の仕組みを人に解説するための資料作りなどは面白く、楽しい仕事だったからである。確信も自信もなかったが、半分は逃げ出したかったこと、そして半分は藁をもすがる思いからだった。


次号へつづく

元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第1回

元キャリア官僚が自然から学んだ生きる指針 第1回

◎横山昌太郎(よこやま しょうたろう)
 1971年広島県出身、三重県育ち。大学では森林保護学を学び、その後環境省(当時は環境庁)に入省。9年の勤務後辞職し、長野県軽井沢のピッキオ(星野リゾートグループのエコツアー団体)に入社、森の生き物案内人となる。10年間のガイド経験後、新たな生活と働き方を目指し2016年4月香川県に移住。地域のガイド、畑仕事の手伝い、ガイド養成講師、エコツーリズムアドバイザーなど複業によって生活している。




 2月の深夜4時、冷たい雨が降る東京新橋の街なかをずぶ濡れで歩いていた。「もうどうにでもなれ」と思っていた。

 環境省の官僚として勤務して何年目だったか、精神的な限界がきていた。

 四日市ぜんそくで知られる公害の町、三重県四日市市で育った。広島の山間部で育ち、キャンプなどアウトドアが好きな父と、宮崎の農家で育って山菜採りやチャボやウズラを飼うのが好きだった母の元で育ち、(ゲームやテレビに費やした時間がかなり多かったことは否めないものの)両親の影響を受けて釣りや山菜採りが好きな少年だった。
 
 中学に上がる時に、校内暴力が酷かった地元の公立ではなく、近くの私立の中高一貫校を受験し、運良く受かった。しかし、大学受験では「自分は何がしたいのか」ということに悩んだ。言われた勉強をするのではなく、「自分で進路を選ぶ」ということが難しかった。大学の学部・学科名程度の情報を頼りに「化学の試験は得意だし、四日市は公害の街だから、工学部で公害対策でもできたら・・・」程度の気持ちで受験し大学に入学した。

 しかし、大学に入ってしまうと、なにか気持ちが落ち着かなかった。「大学に入ること」がゴールになってしまっていたので、地に足がついていない感覚があった。社会運動のサークルに身をおいてみたり、カソリックだった高校での男性職員の合唱に感動した記憶から合唱サークルに入ってみたり、仏教のサークルに入ってみたりしたが、これ、というものは見つからなかった。肝心の勉学も大教室の後ろの長椅子で横になって寝ていたなど、全く身が入らず、最初の学期でいくつもの単位を落とし、「落伍者」になることに恐怖を感じていた。

 そんな時、「林学」の講義に出会った。世の中に「木や森のことを勉強する学問」があるなどとは思いもしなかった。指導教官は「絶対に就職の時になって泣きついてくるから・・・」と強く反対したが、学部を変更して農学部林学科で森の勉強を始めた。


次号へつづく


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